Discarnate man
ローンリーハーツ様

私は今十六歳です。 もしあなたが私にどうしたら良いかお教えくださったなら、この上ないことですし、大変感謝いたします。 私がまだちっちゃかった時はそれほど酷くなかったのです。 それというのも、近所の子供達のいたずらには、 慣れっこに成って居ましたから。 この頃、他の女こと同じ様にボーイ・フレンドをもち、 土曜日の夜にはデートをしたいと思う様に成りましたが、誰も私を連れて行ってくれません。 というのは私には生まれた時から鼻が無いからです。 でも私は上手に踊れますし、 スタイルも中々です。 父は綺麗な服を買ってくれます。 私は一日中鏡を見ては泣いています。私の顔の真ん中には大きな穴が亜あり、みんなが怖がります。私だって怖い位です。ですから男の子が私を連れて行きたを思わなくても仕方が無いと考えています。 母は私を大事にしてくれます。でも私を見ると大変泣きます。 こんな酷い目に会うなんて、私が一体何をしたというんでしょう?何か悪いことをしたとしても、一つに成る前は何もしていません。 私ゃこんなふうにうまれついたのです。パパに聞いて見るんですが、彼もなにも知りません。もしかすると、生まれる前に、前の世で何かしたのかもしれません。 あるいはもしかすると、彼の犯した罪の報いを受けて居るのかもしれません。でもそうも思えません。だって彼はとても良い人なんですもの。私は自殺すべきでしょうか?

『スティグマの社会学』冒頭より引用

最近の思想を徒然と 機械論的認識に関して

道具とはなんであるか。
道具は人間の使用対象、調達部であり、目的を達成する為の装置である
装置である以上、その目的となる「モノ」が存在し、道具・技術は特定の目的にそって、そのモノ、に変化を及ぼす。道具は、使用対象であり、調達物であるが、その対義的な存在は、非調達物であり、操作対象外の存在である。しかし、ここで、道具が何をするのかを考えれば、それは操作対象外の存在を操作するということである。すなわち、道具はその目的に応じて、その対象物を、使用者の非道具としての存在から、道具へと変化させる、物質・物体をものとして用象化する特性を持つ。
そうして、技術の発展とは、それ自体が周囲のほかの存在を、調達物に連鎖的に変化させる行為であり、それは自然から非自然への以降といった形でしばしば語られる。そうして、人間は自らの周囲の環境を自らの調達物として自らの意思にしたがって変化させてきたのである。治水に拠って河川を、自然の脅威から、操作される対象へとかえ、気象予報に拠って気象を自らの目的に沿った利用対象として変化させてきた。その過程は、分類と定義からなる科学においても同様であり、それは自然を自らの認識、存在において、用象化する行為である。河川や、気象を理解するという科学はその対象を自然から調達物、道具、機械の一部へと変化させた。それは自らの”埋めこまれた”環境を自らの対象物として此方側へと引き上げる行為の連続といえる。

産業革命期のラッダイト運動の根本は、人間の生活の機械による破壊への抵抗であった。しばしば経済学で語られる、土地と言う名の自然と、労働と言う名の人間と、貨幣と言う名の流通の擬制商品化とは、それぞれの道具化であり、それが人間自身を非自然的な方向へと用象化した行為として非難される。ここで想定される、「自然な」人間とは自然に生きる人間であるが、此処までに見たように、人間自身の本質は、”此方側”にあるのではないだろうか。そこで想定される、”人間”とは一体なんであるか。この環境に対する反動以降に行われている経済学とは、コレまでに河川の氾濫と干ばつを予測し、利用してきたような行為であり、専ら目的とされている景気の安定は、当に河川の治水であり、その道具を治水工事から経済政策に移行させたに過ぎない。経済における自由主義とは自然崇拝であり、川が時間の経過と共に自らの幅と水量を増加させる侭に任せそこから神の恵みを受けようという姿勢に過ぎない。

思想や、システムは、特に法律や行政などの面で顕著だが、それ自体として車や蒸気機関と変わらない道具であり、その違いは物質的時限にある仕組みか、思考と論理でくまれた仕組みかという違いに過ぎない。クーンの科学パラダイムも、ブライアンアーサのテクノロジーイノベーションも、シュンペーターの起業家理論も、それぞれの平野を変えて同一の事象を扱っているに過ぎない。そして、其々の全てのものは、道具が組み合って、新たな領域を用象化していく同一の過程を辿る。

ラッダイト運動や資本主義と対置される形でのポラニーの埋め込み理論は、人間が、特定の道具、機械に環境として埋め込まれていく過程を説明したものだが、視点を変えれば、人間は最初、自然という「人間」の意思の混在していなかった機械に埋め込まれており、そこからそのシステムを独自の機械として作り替えていったのである。それは作り変えると言うよりも、上から、新たに覆いかぶせるというような形で以前の環境を埋め込んでいくのであるが、社会主義的な運動と、資本主義批判は、自らを苦しめていた埋めこまれていた自然という環境を自らの機械によって埋め尽くし、そこから今度は自らのその環境に埋め込まれ、その環境によって再び苦しめられる過程を説明しているのである。そして、再び自らの創りだし、自らの埋めこまれた環境を用象化し、自らの調達物とする過程を繰り返している。

ここで、矛盾が生じるのだが、自らが調達物として用象化した物によって生まれたものが自らを埋め尽くした途端に、またしても自らの手に負えない自然的な存在に回帰しているのは一体どういうわけであろうか。個々個別の事象としての用象化は人間の(一見して)意思・目的(と呼ばれるもの)によって行為されているわけだが、それぞれのが順次に、連続して波及していく運動とその結合は、マクロ的な動きからしてはまるで個別の人間の意思に依るものではない。其々の歴史の過程における(それは唯物史観的なものではなく、それぞれに個別的な)環境の変化は、人間に意図されたものではなくて、後に、或いは渦中において「発見」されたものである。そして、現在人間が苦しめられているような存在はその人間の意思の外にある、当初の用語的な意味での(この文章全体にわたって語彙的な統一がなされておらず変遷しているのは認めるところである)「自然」として機能しているのである。そして、人間は、自然を克服する形で、新たな自然を(一見して主観的には)創り上げるのである。そして、その自然を再び用象化する先に何があるのかは未だに明らかになってはいない。

ここで、気をはらたいのだが、それぞれの、次元の違う用象化の対象、物理的な道具、社会的な機構や思想、科学などは全て個別的に進化しながらも、相互にマクロ的には夫々における運動と同様の運動を示しているのである。先ほどまでの其々の変化も、思想に拠って展開されたのか、技術に拠って展開されたのかという論に本質的な意味は無い。詰まり、人間はその生全体として個別の要素を集合とする形で、同一のベクトルの運動を展開している。その意味で人間は環境をも含めた全体として、一個の機械なのである。

そして、その行為の主体は一体誰であるかという問題であるが、この時考える必要があるのが、そういった全体的な方向性以前に、人間自体の用象化という問題である。神からの離脱として、神と同等の位置に起つ人間の存在を宣言したパスカル以来の実存主義的な認識は、我考える故に割れありといったものよりも寧ろ、ここまでの理論をたどると、神という全体的な存在から自らの次元に移して自らを用象化しようという運動である。自らを認識するという行為は、自らを「対象」とし、自らを調達物に格下げる行為にほかならない。そして、これもこれまでと同様に物理的な技術と思想のどちらに拠って引き起こされたと名言可能なものではない。音声、文字、活版印刷と技術の発展に伴い、人間は自らの思考をさまざまな段階で用象化してきたのである。現在これを書いている私にとっても、脳に言語として浮かび上がった途端にそれは私から完全に調達物へとその格を落としているのである。そして、現在の電子メディア、SNSが自らの現存在、自己規定を用象化しているのは、コレまでの他の文章において明らかにしてきた通りである。服装や散髪技術、化粧、成形技術は自らの外見を用象化し、車は足を、電話は耳を(拡張という意味では耳と言うよりも「聴くという行為を」)用象化しており、SNSは自らの属する人間関係や社会的な共同体を(自己の一部として)用象化しているのである。そして、電子メディアや特定メディアを通した時、「他者」という人間は完全に人間の側から調達物へとその格を落としている。もはや、「人間的な」「ヒューマニズム的な」独立した存在は自らの存在を残すのみと成っているのであるが、環境も含めた自己規定という存在や、或いは宗教的な存在、自己啓発といった類と、社会的な人格という自らの変化は、自らの存在いう意味での用象化なのであり、SNS等における、関係性などから創り上げられた、キャラクター性は、あたかも解離性同一性障害の人格が主人格を食いつぶす、或いは統合するといったように、自らを自らの意思に及ばない形で用象化し、それは、最初主体であった用象化がその対象物を覆い尽くすという、コレまでに見てきた過程と同様の道筋をたどっているのである。

共同体主義変遷メモ

社会性の行動と、個人的な行動と、同時にやればいいのだろうけど、前提とされる心持ちがそもそもとして違うので、行ったりきたりして、困り果てるのです。

当たり前の話だけど共同体に於ける奉仕や役割に対する報酬は評価や地位、信頼という無形のものだ。社会性の行動を続けつつ常に人生過程毎に流動的に共同体を移動すると残るのは徒労感だけじゃないだろうか。

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 1930年に出版された大宅壮一の『モダン層とモダン相』がヒントを与えてくれるかもしれない。

 大宅壮一は序文の冒頭で、時代の空気を表現する「慣用語」を、「不安。動揺、懐疑、絶望、反逆、分裂、崩壊等々」と連ねる。われわれが連想する<モダニズム>とは少しずれる言葉で大宅が語り始めるのは、彼がどう時代の社会を「資本主義末期」と見ているからである。二年後にプロレタリア作家同盟中央委員として検挙される大宅は、れっきとした左翼評論家として、『モダン層とモダン相』に収められた評論を書いていたのだ。・・・・・・・・・

 「モダン層」とは何か。それは「末端的消費的先端」としてのモダンを生きる、「没落した中産階級であるところの有識無産階級」である。大宅によれば、彼らは「映画と、ジャズと、ダンスと、スポーツを通じて輸入されたモダニズム」を生きるものである。・・・・・・

 では「モダン相」とは何か。モダン層が形作る時代相だ。大宅はそれを、「理想も道徳も感激もない世界」、即ち「感覚の世界」であるという。この近代人に残された唯一の世界を生きるために発明された「生活哲学」がモダニズムである。

モダニズムには「昨日」も無ければ「明日」もない。あるものはただ人工的刺激によって強く感覚に印  象される刹那が在るばかりである。「昨日」は記憶から駆逐しなければならない悪夢であり、「明日」はそれ自身なんの魅力をも約束しない砂漠である。

 もし本当にこのような世界が存在していたとすれば、それはわれわれが生きる今日となんとよく似ていることか。

有馬学 2010 『帝国の昭和』
経済人類学的ニート論

経済人類学的ニート論

ニートがニートに付いて考えてみました。虐めないで下さい。
by Kaya3728
  • Kaya3728
    「個人が働く目的は、文化的に決定されるのであり、単なる食料不足というような文化的には規定されない外的状況に対する、有機体の反応などではない」
  • Kaya3728
    「一群の未開人が金鉱の交付や船舶の乗組員に変じたり、あるいはたんに、努力の動機を全て奪われて、まだ 魚に道あふれた小川の傍らで安んじて死を待つままになる、といった過程は、外的に持ち込まれたか少なくとも外的に引き起こされたかした激しい変化の只中に 置かれた民族に対して生じることである」
  • Kaya3728
    ニートが働かない一因は、食えるからではなくて、労働の先に、社会的な承認が展望できないからである。既に決定的になった社会的地位が、フリーター的な労働のによって撤回されうことはなくその先に、社会的な、文化的な充足が展望出来なければ人は労働の動機を見出さない。
  • Kaya3728
    労働により、社会的な承認が生まれないのなら、特定のコミュニティにおける存在承認が無いのなら、人はしばしば堕落と死を選ぶことは文化人類学の歴史が承認している。
  • Kaya3728
    人間が生きるという欲求は、生そのものに宿るものではなく、社会的な欲求に依存するのであり、更に当時的な食住が確保されているのなら「人間」は意欲を持たない。
  • Kaya3728
    旧来の、個人がまだ社会に存在した時代ならば、労働はそのコミュニティにおける承認をもたらした。しか し、現代の分断された社会に属さない個人の労働行為は、更に派遣やバイトの様なその職場ですらコミュニティ機能を持たない労働は、本質的に「餓死」に対す る欲求以外の何者も保証しない。
  • Kaya3728
    それならば、そのような環境で単純な生存権が確保されている人間が労働に対して意欲を見せると言うのは、本来的な人類普遍的な性質ではなく、一種文化的美徳でしか無い。そして、その文化的美徳自体が通用する文化的共同体からの断絶こそが、その無気力の原因なのである。
  • Kaya3728
    マスメディアが、ニートを批判し、働く意欲のなさを糾弾するのならば、ニートが簡単に付ける労働、職に対 して社会的な承認を喚起しなければいけない。賃金の低い単純労働を、他の階層の労働と区別し、労働種自体に価値基準を定めると、労働に対して僅かに残され た社会的な尊厳すらも消失することになる
  • Kaya3728
    ボランティア等の社会的活動が、「人気」であるのは、それが社会的承認を伴うからであり、同時にそれが 「大学生に人気である」という事実は、既存の社会形態、資本主義的形態に対する無意識の反発を示している。職業支援的な活動は、最適源の生活賃金と同時 に、その社会的地位を保証しなければ無意味。
  • Kaya3728
    根本的にあらゆる社会性の崩壊が現代の問題であって、エコノミックアニマル病は人間を死に至らしめる。
  • Kaya3728
    同時に社会性の保証を進めないと、労働意欲は益々減退していくだろう。働いた所で家族も持てない、社会的 なコミュニティももう存在しないというのなら若者が働こうなどと思うわけがない。それで私たちはネットや他の文化的活動を介して社会を作る。その集団がオ タクなんじゃないだろうか。
  • Kaya3728
    文化と社会の欠乏は、紙幣の欠乏より危機的であり、後者は前者の手段に過ぎない。バックボーンに文化とコ ミュニティを携えた老齢世代が、自らの欲求を貨幣と勘違いし、それを餌に、背景の消失した世代を喚起しようとしているのが現状の日本。エコノミックアニマ ルは貨幣だけでは餓死するのである。
  • Kaya3728
    テレビメディアはアメリカの商業主義イデオロギーを輸入するという形で日本に導入されたのは歴史的に明ら かで、それ故に一億総中流は経済的価値観を盲信し、世界第二位の経済大国を創り上げた。社会が皆貨幣という価値観に基づいて運営しているが故に人間の動機 となっていたが現代はその前提が失われた
  • Kaya3728
    「アメリカ」という国体は自由主義に基づき、経済的自由主義の背景は集産主義、社会主義的な社会性の否定である。文化衝突は必ず、強者が勝ち、経済性という価値観はそれ自体に力を内包する。
  • Kaya3728
    私たちの問題は、階級闘争的な問題ではなく、価値観と構造の問題である。民主主義過程における、「利益集約」という役割の「利益」が一体何を指すのか系譜的に理解できている日本人がどれだけいるのだろうか。
代議制民主主義と利益集団

代議制民主主義と利益集団



近代議会政治においては一般に政党が公約という形で民衆の利益を集約し、それを選挙において民衆が選択することで有権者にとっての利益が実現される。

このように、一般に政党は「国民の」「利益集約」機能を担うものである。

その意味で政党は国民にとっての利益を実現するための集団と言える。一方で、現代の政治形態には「利益集団」という存在が非常に大きな意味を持っている。

利益集団とは、共通の利益、目標をもつメンバーから構成され、その達成を目指す団体、集団である。政党と政治家はそれ自体として、「選挙に当選し多数派を占めること」を直接の目的としている(特定の理念の達成ではない、それは国民によって選択される問題であり、政党それ自体の目的は当選することである)のに対して、純粋に「自己利益の達成」を目的としている点で政党とは異なる存在である。


利益集団は産業革命期とそれに伴う工業化、都市化、社会の希薄化が顕在化した時に生まれた職業集団を起源としており、その後の民主化に伴って、議会、政党では担保できない国家、地域利益の実現を代替する存在として定着化したものである。

利益集団は主に
①セクター団体:職業、業種ごとに集まった集団(例:経団連、学会、農業団体、等
②政策受益団体:補助金、制度など政策に利益を左右されやすい集団から成る(例:福祉団体、農業団体
③価値推進団体:特定価値の普遍化を目指す。(例:環境団体、等
からなり、③は環境、人権、福祉、などを扱うNGOやNPOなどの公共利益集団をも含む。


利益集団の機能は

①利益集約表出機能:希望を集約し、政策として政府に表出する。
このことをロビイングといい、大企業の経営者の集団である日本経団連は、円高対策、TPP推進、法う人税減税等の企業利益をロビイングしている。

②情報提供機能:政治家の持たない特殊な経験知識、情報を提供し、自らの利益に反した政策が実現されないようにする。日本自動車工業会等が代表的。

③議会、政府のチェック機能:マニフェストが利益に反していないかをチェックし採点する。21世紀臨調(第二次臨時行政調査会:経団連や連合などが参加)がマニフェストをチェックしている。

ここで問題と成るのは、「ロビイング」である。
ロビイングとは、議会、政府、世論に特定の利益集団が働きかけることであり、アメリカでは30万人もの議員、公務員、記者などとの人脈がある人物、ロビイストが活動している。ロビイストは、実際に政策立案に関与したり、自己利益に有益な情報を提供するほか、議員に資金(PAC)を献金という形で提供する。さらに、レイティングという議員の評価を行い、選挙自体に印象として関与する。

日本の場合は日本の法律の八割以上を担う省庁との接触を図り、マスコミに情報提供、する他広告やデモ、記者会見などを効果的に利用し、自己利益の達成を目指している。

日本に於いて影響力の強い利益集団は順に「経団連、連合(日本労働組合総連合会)、日本商工会議所、全国知事会、全国銀行協会連合会、となっており、経済的利益を追求する企業団体が非常に強い影響力を持っていることが伺える。

さらに、オランダやドイツ、日本などで行われている「ネオ・コーポラティズム」という政治形態があり、利益集団が政策決定に直接関与することが可能である。経済団体の代表を会長とする第二臨調1981年以来国家政略会議等に直接的に介入し政策立案そのものに関わっている。


一般に現代の日本で有力な利益集団は、公共の利益の達成を目指すものでなく、特定の団体にのみ有効な利益を追求するエゴイズムの強いものと成っている。憲法でロビイング其の物は認められているが、そのようなな利益集団が直接的に政治に関与するというのは反民主主義ともとれ、議会制民主主義に基づく正当性が存在しない。更に、利益集団は選挙に基づいて選択されているわけでもなく、責任も負わないために一切の抑制機構が存在しない。このような過剰な利益追求主義的政治形態は利益集団の特権階級化と格差問題を引き起こす。


一般に、現在の日本における「民主主義選挙」とは最早、

利益集団に依る誘導でしかなく、利益集団によって作られた政策を利益集団の評価と利益集団の意向によった情報によって判断し、利益集団によって運営される

という形態をとっている。根本からして、民主主義的とは言いがたいのではないだろうか。現在格差社会化の顕著化したアメリカで様々な権益に対するデモが行われているが日本も対岸の火事とは言えない。問題が表出していないだけで、形態として純粋な資本主義的行政運営が行われていることに変わりはない。

現代日本では世代間格差などが問題と成っているが、それは直接的な選挙活動と言うよりもこのようななロビイングによって解決されるべき問題であり、個々別々の「民主主義的手法」は最早機能しないのではないだろうか。

そもそもにおいて、「一般的に考えられている」民主主義選挙は公共の利益に基づく行為と勘違いされているフシがあり、特定の団体に一方的に有利な行動、政策を支持するのは間違いと見られがちである。しかし、選挙は其々の意見のと利益の集約そのものであり、全体的な、理念的な達成よりも寧ろ自己利益の極端な追求を行うべきものとして現状機能している。特定の理想を掲げているかぎり、自己利益が「民主主義的に」達成されることはなさそうである。


以上アメリカのデモを受けての徒然でした。(因みに僕はこれら(以下)の意見に「賛成」するわけではありません。紹介です。)






人間が宇宙に関して、と言うよりは寧ろ人間が接触する宇宙のある限られた部分に関して、自然に得ることのできる概念というのは、中程度の大きさを持ち、接触的な諸力の働く中で、可視的な三次元的容器の入れ物の中を、中程度の速さで動き回り、しかも極めて単純な幾つかの法則に従って居るような種類の対象によって作り出されている世界についての概念でしか無いのである。
シリル・バート
大義のある侵略に正当性があるのか~ウェブの自由に関して~

~オキュパイユアブレインは現実の運動として既に意味を持っている~

ここ数日アメリカのデジタルミレニアム著作権法関連のニュースが絶えない。著作権侵害であるとして、megaupload を始めとする無料ストレージサービスの封鎖が相次いでいる。基本的に僕は作者の著作権は守られるべきであると考えているし、この一連の動きに対して特に反対の意を表明するつもりは無い。

今考えなかればのはもう少し抽象度の高い話だ。ここで問題に成っているのは、「価値観の普遍性」についてである。今問題に成っているのは、技術や情報空間に対する認識の差異である。基本的に無条件の規制推進派は、ウェブを単なる「道具」としてしか認識していない。刃渡り◯センチ以上の包丁は人間にとって危険なので取扱に規制をかけよう、といったレベルで問題を認識している。
しかし、一方で規制に対して、反対の意を唱えている人間は、少なくとも、情報空間をそれ独自の場所として認識している。つまり、包丁は日本人に取って危険だからといって、アマゾンの部族の武器を取り締まるのは可笑しいじゃないかという認識、現実の問題と、ウェブ上の問題は平野の異なるものだと言う認識に基づいている。


ただ彼らがウェブ擁護の大義名分として掲げている、ウェブの創造性や、自由の保証というものも僕の主張したい問題とは少し異なる。そもそもにおいて、自由や、創造性の価値、といったものそれ自体が現実空間の価値観に基づいているものであるからだ。そもそもにおいて、現実で絶対的な価値観はウェブ上でも絶対的に正しいというロジックはなんの正当性も持たない。一見して、私たちは現実での禁忌はウェブでも当然禁忌であると納得しがちであるが、それは思考放棄的態度であり、短絡的誤謬である。特定の思想が普遍的であるというのは、そもそもにおいて謬見である。現状の思想、価値観は歴史的な同意に基づいて、仮説的に採択されている一つの制度であり、それ自体に絶対的な正統性を有すものではない。そして、その同意は必ずしも全ての条件下で適応するものではないのである。

自由や、平等といった価値観は日本人のほぼ全てが正しいと信奉している思想だが、それがウェブ上に於いても絶対的に正しいという理由は何一つ無い。そもそもにおいて、ウェブとは何であるかという認識が統一されていないのである。


仮にであるが、「ウェブは全て架空の世界であり、其処での発言や情報は現実とは一切連関が無い、現実と連関しては使用されない」


という認識を一般に採択するとしよう。そうした場合、其処で行われるあらゆる活動は現実においてなんの意味も持たない。これは一見して完全に間違った論理と思われるかもしれないが、現在でも独り言や個人の思想、といったものは基本的にそのように認識されているのではないだろうか。勿論現状のウェブは現実に対して特定の影響力を持つので、独り言や思想とは異なる、しかし、今個々で言いたいのは、その根拠に対してしっかりとした思考と認識、同意が確立されている訳では無いという事だ。例えば、ウェブ上のSNSで相手のアバターを殴る行為は禁止されるべきであろうか。基本的に他人に危害を加えるという行為の違法性は対象者の「身体」をその根拠としている。しかし、ウェブ上において身体は「存在するのだろうか、しないのだろうか?」貴方はそれに明確な根拠を持って結論を下せるだろうか。また、その人間の架空のキャラクターとしてのアカウントに対して行われる誹謗中傷は禁止されるべきだろうか。ウェブ上のそういったキャラクターには人権は保証されるのだろうか。仮に、その背後に人間が居る以上、架空としての人格であっても保護されるべき、というのならそのアカウントには人間としての権利が認められるのだろうか。作られた、アカウントを公共の利益の為に運営者側が削除する行為は認められるのだろうか。情報として、そのアカウントの有する物にそのアカウントに依る所有権は存在するのだろうか。これは、利用規約の問題ではなくて、正当性の問題である。そして、このような価値観に対する正当性は今のところなんの議論も行われないままに、「なんとなく現実の価値観を適用させること」で賄われている。そして、その限界としての齟齬こそが今様々に表象して来ている、発言権、著作権等の問題なのである。


基本的に、ウェブ上の問題は、そこが「何であるか」という共通認識すら定まっていないので、現状の現実空間における価値観によって決定することは正しくないように僕には思われる。即ち、基本的に現実の「法律すらも」明確な根拠としての正当性は持たないであろう。私たちは、ここに対してあまりに議論が浅すぎるのだ。そして、現実の問題においてもそうであったように、一般的に単なる利用者はそのことを考えない。今でこそ基本的人権や自由などが一般に普及し、過去のそれらが冒涜されていた時代を野蛮だと評するが、当時の人間にしてみれば、そんなこと「考えたこともなかった」のであるから、なんとなく既存の価値観に則って行為していたに過ぎない。そして、それは現代における一般的なウェブの利用者の態度と全く同一なのである。


オルテガやベネディクト・アンダーソンの言うように、基本的に国家というのは特定の枠組みにおける思想的共同体である。特定の理念と目的の達成を持って共同体として機能している。日本の場合は戦前には八紘一宇であったり、現代においては経済的競争であったりする。そして、基本的にその思想の世界的な普及は、侵略という形で行われる。と言うよりも、国家が特定の理念共同体である以上、特定の理念の押し付けや啓蒙は、それ自体「その国家の本質的存在に対する侵略」でしか無い。そして、現在ウェブにおいて行われているのは特定の価値観の侵略以外の何者であろうか。それが、一見して現実の日本資本主義社会から見て正統性がありそうであるという根拠は、ウェブにおける一連の侵略を正当化しうるのだろうか。その過程には議論も、思考も介在していないではないか。


そして、更に恐ろしいのが、ウェブが、それ自体として人間の思考の用象化装置として機能している点である、私たちはウェブを通して自らの自己規定や思想に介入する。その意味でウェブは一種私たちの思想其の物であるとも言えるのである。それ故にこの侵略は「私たちの思想」そのものに対して行われているのである。(前前記事参照)

繰り返しになるが、私は一連の過程について反対も賛成も表明するものではない、ただ、その正当性を「考え」「共通の認識と価値観を醸成させる」必要性を説くものである。


ハイデガーは電子時代の波乗り遊戯を楽しまない。

―何故本とは異なり、ウェブでは知識の上昇が起こらないのか―


  本がただ単なる知識の伝播と異なるのは、其れが思想の引継ぎである点である。思想としての知識は、特定の部門のパラダイム其の物を読者に引き継がせる。それ故に、読書という行為は、それが正しく行われ、商業的に侵されていない限りにおいて常に思想の段階的向上を意味する。本に拠って何か特定のパラダイムを追うとき、私たちは次第に本と共に歴史を駆け上り、現在に近づく。一冊の本を読んで思考すると、次の思考は自ずから次のパラダイム、思想史のより現代に近い方へと向かい、次にその思想のかかれた本を手にすることと成る。


  一方で、一日中ネットサーフィンをしている中で、偶然的な出会いによって特定のパラダイムを知ることはあっても、それ自体の過程に思想の近代化を体験することはあるだろうか。Twitterは何か特定の事象に関してあなたの認識を現代に近づけただろうか。私の経験上それは、殆ど無くい。あっても極稀な何かウェブの構造とは異なったところから生まれた偶然的な結果であった。


  思想は個人の内的世界において発展させられるものであり、人は知らないものを「思想として」知ることはできない。単純な情報としての知識は本質的な理解を引き起こしては居ない。読書は本それ自体が作者に依る一つの思想の変遷であり、その縦の連関を辿る作業であるがゆえに、情報のベクトルは上に向かっているのである。一方で、近年まるで救世主のようにもてはやされている集合知は作業の集約と意見であるが、それらは一個人の思想の様に昇華、止揚されるものではない。基本的に会議という過程は、特定の既存の意見を「採択する」行為であって、新たに思想を作り出したり、其々の意見を止揚させるものではない。それは、会議というシステムが基本的に、根拠に由来するものであり、根拠とは既存の知識、完成品としての知識に依存するものだからである。2ちゃんねるやTwitterありとあらゆるウェブにおける講義の場で、何か論自体の進展が起こった試しがあるだろうか。

  知識に関して言えば本は階層的であり、ウェブは平面的なのである。その意味で、それぞれの連関の横の広がりに関して言えばウェブに軍配が上がるのは間違いない。げっ歯類についてWikipediaで読んでいて、興味のままにリンクを辿っていけばいつの間にかジャスティス・ビーバーにたどり着くだろう。しかし、それは同時にウェブの構造に依る教育は「ウェブ以上の能力を産まない」ことを意味する。広範な横の連関を習得した人間は、恐らく個人としてはウェブの劣化版に過ぎない。

  つまりウェブにおける思想の進化は、思想其の物の革新をもたらすような形態を取らず、何方かというと構造的な複雑さを増すだけである。其処で生まれるのは、高尚な知識と思慮を持ち合わせた人間ではなく寧ろ、主体的な意見に同調する事であたかも知的な過程に関与しているかのように錯覚する公衆である。そして、その構造は特別人間的な成果をもたらしはしない。対技術との対義語としての人間性は常に思考と、芸術的霊感に由来するものであり、其処に生まれるのは地下に複雑煩瑣な蟻の巣のような構造物でしかないだろう(この過程に付いては前記事参照)。

  技術の能力が向上し、我々の可能な行為が増えるに連れて、私たちが行為に対して考えるべきことは増える。過去に賛美をしていた原子力の無責任さを科学の欠陥として、人間に対する反逆として糾弾しながら、同時に無批判にウェブを賛美するというのは些か幼すぎる態度のように私は思う。語られる夢が大きいほどに、その影響力は大きく、それはその技術の責任の大きさを同時に示す。そして、この問題はウェブという装置がそれ自体ある意味で思考停止を引き起こすという問題と関わって更に巨大化し、認識なしにには手に負えなくなる(前記事二章参照)。

  マーシャル・マクルーハンは来る電子時代の到来が私たちの知性を呼び起こし、まるで波にのるようにウェブ上で思索を人々が楽しむ光景予見し、その比喩として論文の一節に「ハイデガーは電子時代の波乗り遊戯を楽しむ」と銘打った。一方で、ハイデガーは森の奥の小屋でメディアを嫌って引き篭っていたのだ。

なぜなら彼は思索が好きだったから。